データの質感

情報にもモノと同質の「所有する喜び」があって良いんじゃないか。

本も、ニュースも、音楽も、デジタルデータとして購入する事が多くなった。かつては、発売日にお店まで時間をかけて買いに行ったものだけど、今や、どこにも出かけること無く、ダウンロードで手に入れる事ができる。場所も取らず、楽しんだ後に保管する場所にも困らない。購入や保管に関する様々な面倒から解放されて、気軽にコンテンツを楽しむ事ができる。これは、とても大きな環境変化だと思う。

しかし、音楽というコンテンツだけでなく、音楽を記録した媒体やブックレットなどの付属品まで含めて、パッケージとして「音楽を買いたい」と思うことがある。僕たちは、データとしてコンテンツを買うようになってから、コンテンツ以外の要素からも何らかの満足を得ていたことに改めて気づかされた。

モノは手に取ることができる。コンテンツそのものに対する感動とは別に、手触りから伝わる喜びがある。それに対して、データは愛着や所有する喜びが希薄だ。データは手に取る事ができないから、所有している実感がない。もし、モノへの愛着が、対象を手に取ることによって生まれる感情だとしたら、形を持たないデータには、愛着を感じることは無いのだろうか。

僕たちは、コンテンツを体験することで芽生えた感情を、触れる、など、また別軸の身体感覚から刺激が加わることで、その印象をより強固なものにしているのかもしれない。音楽というコンテンツを体験し、パッケージやブックレットを手に取って、モノとしての質感を身体的に感じることで、その体験、心の動きが身体的に強く印象付けられ、愛着が生まれる、という感じ。だとすると、コンテンツに、何らかの質感が伴っていることが、愛着を感じる一つの要件であると考えることが出来る。

では、質感とは何なのか。もし、質感が、手に触れる、目で感じる、など、身体的な知覚行為そのものではなくて、その結果、心に生まれる感覚を指すのであれば、モノとしての形を持たなくとも、そこに質感が生まれることはありそうだ。例えば、昔好きだった音楽を久しぶりに聴いた時、その当時の思い出や感情が強烈に蘇ってくることがある。その当時の身体的な感覚が瞬間的に戻ってくるような、そんな感じ。情報としての記憶というより、もっと質感を伴ったものだ。この音楽をライブラリから削除しなければならないとしたら、何かしら、躊躇する気持ちが芽生えるんじゃないか。その感情は、愛着とはいえないだろうか。

形を持たないものが身体的感覚をもたらす例、他にないかな、って思ったら、テレビゲームがそうだった。ゲームは情報によって描写されるもので、実体を持たない。なのに、高い所から落ちると、ゾッとするし、危うい足場を行くときは、思わず手に汗を握る。急カーブを曲がるときには、なぜか身体が横に傾いてしまう。『桜井政博のゲームについて思うこと』で、桜井さんが「画面上の何かを操作できる。ただそれだけで、本当は重たさも何もないところに生理感覚を作る」と表現されているけど、ゲームは、視覚的にコンテンツを楽しむのと同時に身体感覚も伴っている。

モノでなくても、そこに質感は生まれるし、愛着も生まれる。情報にも「所有する喜び」が生まれる余地はある。情報そのものに対する評価や感情も重要だけど、同時に、その感情を定着される何かが設計されているかどうかが、ポイントになるのかもしれない。